放浪し進化するコミュニティサポーター栗之助のブログ

放浪し進化するカウンセリングマインド♥️をベースに活動するコミュニティサポーターです。

Win-Lose な社会が見えない敵との戦いを延長させる愚行だと気づくこと。

こんにちは、コミュニティサポーターでエッセンシャルワーカーでもある栗之助です。

 

最近、あまりにも自己中心的な行動に悩まされることが多く、こういうヒトの様相をした中身が空っぽの生き物に、憤っても、諭しても、自分にとって無駄な時間なので、不快な気持ちを手放し流し、関わらず、ほったらかしにすることにしました。

 

例えば、メールに多量な添付ファイルを送られることが多々あるのですが、メールの半分以上が、私の作業には関係のないことです。

 

それを確認して、処理(ゴミ箱に入れる)するまでの時間が、本当に無駄な時間で、こういう生き物を「時間泥棒」と揶揄しています。

 

こういう能無しの生き物は、中身を精査せず、一斉送信で送って来るので、送った側は、それで作業はおしまいになりますが、関係のない我々は、余計な作業を強いられます。

 

頭を使って精査し、送る内容に合わせて、一斉送信する相手を限定し、グルーピングすれば良いだけの、少しだけ知恵があれば、小学生レベルで出来る平易な作業です。

 

それをしないで時間泥棒している自覚も微塵も感じない、アホな生き物に平日の作業で時間を取られるので、本当に、バカとは付き合いたくないなぁと思います。

 

そういえば、昔の知り合いも、偉くなったことで、この時間泥棒に加担し、バカになり下がったので、縁を切りました。

 

こういう、Win-Lose な行動ですが、作業現場だけではなく、私が左遷された辺境の朽ち果てたパブリックでも散見されます。

 

以前、このブログで、私がサウナ好きなことを綴りました(ちなみに「サウナ・スパ健康アドバイザー」という資格を取りました)が、ようやく、サウナが再開し、サウナ通いが復活しました。

 

先日、左遷先のスーパー銭湯に行ってみましたが、今まで通ったサウナの中でもワーストワンの酷さでした。

 

サウナ利用に関しては、人数制限され、ソーシャルディスタンスを守り、サウナ室内では会話しない、というのが、新しいサウナスタイルですが、それが、全て守られていませんでした(ちなみにサウナ入口には、上記の注意事項に対し掲示されてました)。

 

ソーシャルディスタンスのため、✖印がついた場所には座るは、端っこで大声で会話するは、入るたびに大きな声であいさつするはで、本当に「こいつらバカ?」と、思いました。

 

あまりにも酷いので、マスクをして入っていましたが、水と汗で濡れたマスクは通気性が悪くなり、酸欠状態になり、長居出来ず、ととのうこともなく、さっさと上がって来ました。

 

朽ち果てた左遷先には、老害連中と都会で勝負できない能無し連中しかいないので、きっと、新型コロナウイルス対岸の火事程度でしか感じていないかと思います。

 

確かに、ここでは発生していませんが、人や物の行き来がある以上、いつ、どうなるか分かりません。そういう危機感は持っている必要はあると思います。

 

発生していないところで、この程度かと思えば、大都市は一気に、若者を中心に感染者数が増えている様です。

 

私は、今回のコロナ禍で、テレビというメディアから離れ、マスゴミを全く信用していないので、ラジオで伝え聞いた話ですが、感染しているヒトには、Win-Lose という考えが根底になるのではないかと思います。

 

自分さえ良ければという考え方が、時には、関係ない人々に罹患させ、被害を拡大させることになると思います。

 

マスゴミは「夜の街が悪い」などと原因探しをし、Win-Lose の象徴であるコメンテーターという生き物が、好き勝手に断罪していますが、本当に夜の街が悪いのでしょうか?

 

経済を止めることは、その国の死を意味します。働くことで、我々は報酬を得て、生活しています。

 

報酬を受ける場所は、人それぞれで、夜の街で働くことで、生活をしている方々が沢山いらっしゃいます。

 

夜の街に行くことは、人に接する機会があるということなので、必然と感染リスクは高まります。

 

感染を防ぐ一番の方法は、出歩かないことですが、出歩かないことで、経済が回らなくなり、結果、衰退が一気に進み、総倒れという、最悪のシナリオとなります。

 

おそらく、夜の街を含め、人を商売にしている人は、先の老害連中の様な無神経さや、対岸の火事とは微塵にも思わず、神経をすり減らして、ガイドラインに沿って、対策していると思います。

 

それでも、人が歓楽街に出れば、不特定多数に接するのは、防ぐことは出来ません。

 

大事なのは、自分の体調を把握し、少しでも不調を感じたら、出歩かない。自分の置かれた立場を考慮して、行動する。新型コロナウイルスの発生している有無に関係なく、新しい生活様式を受け入れ、実践することだと思います。

 

ワーストワンのスーパー銭湯みたいな場所で不快な思いをしたので、リベンジで、少し高級な日帰り温泉に行きました。

 

サウナ室では、新しい生活様式という流行を受け入れることが出来ない、若いおバカちゃん連中はいましたが、私は鼻から下をタオルを覆ってサウナ室に入ったので、酸欠状態にもならず、良い感じでととのい、リベンジ成功になりました。

 

世の中は音速の如く、劇的に変化しています。特に新型コロナウイルスが猛威を振るってから、私たちの生活様式は一変しました。

 

今まで、当たり前の様に出来ていたことができなくなる不便さや、それに伴う不安や不快を感じたと思います。

 

ようやく、新しい生活様式に沿った形で出来ることをやろうということになり、ソーシャルディスタンスを取るために観客を半分にする、歓声を上げず拍手をする、身体接触はしない、など、手探りで、新たなスタイルを模索しています。

 

私たちも、最低、新型コロナウイルスへの医学的対処法が確立されるまで、今までの様な生活を送ることは出来ないということを認識し、新たな生活様式にシフトチェンジして行くことが、人として必要だと思います。

 

そして、今回のコロナ禍で、人として大事なことは、Win-Win な関係をどうやって構築して行くかということを、露呈してくれたと思います。

 

人が自然に対し、Win-Lose な対応を続けたことで、新型コロナウイルスが起こり、自然災害が頻発しています。

 

今回の世界中を襲った、新型コロナウイルスによって、人は、お互いに Win-Win な世の中にすることを考える機会を得ました。

 

この国は、新型コロナウイルスという非常事態に加え、自然災害で九州北部が、甚大な被害を受けています。

 

こういう時に、自分で何が出来るのか?と考えるのと同時に、お互いに Win-Win になるために、どう行動すれば良いかと考え、実行することが大切です。

 

明石家さんまさんは、今回の震災被害に対し、マスゴミへの苦言を呈し、自分が今できることは寄付することくらいかなと、ご自身のラジオでおっしゃったそうですが、本当に、私たちが出来ることは、そういうことじゃないかと思います。

 

被災地に必要なのは、マンパワーとお金であって、間違っても、千羽鶴を送ることではないことを、賢い人なら、分かることだと思います。

 

私もささやかながら、一番、正しく寄付金を使ってくれる、Win-Win なところに、寄付しました。

 

お互いが、お互いを思うだけで、無駄なことが減り、もっと賢く行動することが出来、それが、結果として、見えない敵との戦いに終止符を打つことが出来ることに、そろそろ気づきましょう。

 

私を含め、皆さんが「人」なのか、「ヒト」なのか、という、岐路に立たされていると思います。

 

私は「人」として生きたいし、活きたいと思うので、これからも Win-Win な関係でいられる「人」との縁を、大事にしたいと思います。

 

「感謝」と「感動ポルノ」の違い。

こんばんは、コミュニティサポーターでエッセンシャルワーカーでもある栗之助です。

 

エッセンシャルワーカーをやっていて、よくSNSで「エッセンシャルワーカーに感謝!」という投稿を観るたび、「そんな陳腐な言葉なんかいらねーよ」とイラっとすることが多々あるのですが、その原因が、タイトルになる「感動と感動ポルノの違い」についての記事を読んで、胸のつっかえが取れました。

 

新R25「ありがとう、は安く不満を抑えようとする言葉かも」幡野広志に聞く”感謝と感動ポルノの違い”2020.7.1(このブログからリンクが張れないので、新R25や幡野広志で検索してください)。

 

「まず黙ろう、我々が。黙って、彼らが喋るのを待とう」

 

この記事の最後に書かれた言葉です。ありがとうと単に発信するのは自己満足であり、「相手のため」というのが「自分のため」になっていないか、自問自答するため、先ずは「黙る」ことは大事だと思います。

 

この記事の中で、幡野広志さんは「お互いにWIN-WINになることを考えれば」とも話しており、SNSでの陳腐な感謝の言葉が、WIN-LOSTだなぁと、個人的に思いました。

 

以前もブログに「〇〇のため」という言葉は、非常に使い勝手がいい言葉ではあるが、本当に〇〇のためになっているか、考えることが大事だと書きましたが、それにも通じる、素晴らしい記事でした。

 

エッセンシャルワーカーが置かれている環境は、皆さんがマスゴミが脚色する以上に、想像を絶するくらい悲惨な状況です。

 

ただでさえも、相手に「ありがとう」と言われることは稀で、大概は罵倒され、罵詈雑言を浴びせられ、優しい人が精神的に殺られる、異常な世界です。

 

そんな状況の端くれにいる自分ですが、正直、罵倒や罵詈雑言を浴びることは、日常茶飯事で、それにいちいち反応していたら、心身が参ってしまいます。

 

かつて、それなりの誇れることがあった過去と決別したのも、エッセンシャルワーカーとして、真摯に対応し続けた結果、心身が殺られ、メンタル疾患に陥り、長期休養を強いられたからです。

 

未だに薬が手放せない中で、自分の身を自分で守る方法を模索した結果、真摯に向き合うことを辞めました。

 

もちろん、エッセンシャルワーカーとして、最低限度やることはやりますが、それ以上のことはしないし、関与しないというスタイルを取っています。

 

感謝される気持ちもないので、単なる流れ作業としてやっているので、感謝の言葉を言われれても、「そうですか」という程度でしか感じません。

 

なので、陳腐な自己満足な感謝の言葉に怒りや苛立ちを感じるのだと思います。そんな言葉を投稿する暇があれば、こっちの仕事をやってみろや!と思います。

 

感情をフラットにして、一切加担もせず、感じた感情にも優劣をつけず、ただ流すことで、自己防衛していると思います。

 

なので、エッセンシャルワーカーの仕事とは考えず、常に作業と言語化しているのも、仕事となると、責任とか、使命感とか、余計なものを背負ってしまうので、仕事とは一切言いません。

 

そして、定時に上がり、定時に帰ることを原則にし、行き来を歩きにして、間にスーパーに寄るのも、作業で疲弊した心身を、部屋に持ち帰らないための手段です。

 

歩き、寄り道することで、時間がかかりますが、その時間が、自分の心身をクールダウンさせる重要な時間だと考えています。

 

職場での付き合いもクールで、それ以外の付き合いはほとんどありません。

 

恩師は、エッセンシャルワーカーの大先輩になりますが、会う時は、近況で仕事の話をするか、困った時に連絡して聞く程度で、後半は、くだらない雑談か、お互いに好きな歌を勝手に歌っています。

 

実は、恩師との付き合いは、そんなにベッタリしたものではなく、案外、ドライなものですが、常に、この人がサポーターだと、思っているので、別に、そういう付き合い方で良いかと思います。

 

他にも、困った時に頼れる上司や同僚はいますが、彼らとも、本当に仕事上の付き合い程度です。

 

元々、人付き合いが苦手で、なかなか過去の仲間を捨てる(電話番号やメアドの登録が消せない)ことが出来ず、意味のない付き合いに、時間を奪われ、人脈という理由で、自分を偽っていましたが、それを、メンタル疾患で長期休養になった時に、一気に断捨離しました。

 

そして、たまたま元知り合いが、同じ会社にいたので、連絡しましたが、偉くなっていて、名前も間違えられたことで、「もう過去に縛られるのは止めよう」と、それも断裁しました。

 

「必要な縁はつながる」と、過去に言われたことがありましたが、本当に、それは実感しています。

 

不思議と、この人とつながりたいという人には、つながりますし、逆に、つながった人と、すれ違いが生じることで、ここが縁の切れ目だなと、断つことが出来ました。

 

それと同時に、過去の自分の栄光やら資格やらそういうものへの呪縛から離れることが出来ました。

 

今、エッセンシャルワーカーとしての作業に、過去の自分はほとんど必要ありません。正直、誰でも出来るものだと思うので、容易に手放すことが出来たんだと思います。

 

過去の呪縛から解き放され、感情優位にならないことで、ようやくオンオフの取り方が上手になったと思います。

 

完全に、平日は作業、休日は非作業(作業に必要な資格の勉強は休止中)になり、週末は、部屋の掃除をしたり、長めに散歩したり、作業で心身を乱さないための自己啓発のために本を読んだり、オンラインサロンの記事を読んだりして過ごしています。

 

今日の様な「日曜日夜」は、相変わらず憂鬱になりますが、好きな作業ではないので、当たり前に起こる反応だと思い、さっさと夕飯を食べて、服薬して寝ちゃいます。

 

平日の作業では、常に、週末の楽しみを考え、「後何日」と数えています。

 

平日は単調な毎日ですが、単調だからこそ、平穏無事に1日を過ごせたと、自分を労って、それの繰り返しで、1カ月、半年、1年、が過ぎて行く、と考えています。

 

今までの週末は、あえて左遷先を離れることをしていましたが、ステイホームを経験して、離れなくても、自分で全く違うことが出来る(出来る限り、心身に良いことをする様に心掛ける)様になりました。

 

住み慣れた場所へも、最低、2カ月に1回は、定期薬の関係で戻らなければならない状況を作ることで、良い意味での息抜きになっています。

 

左遷先では、極力、節制し、左遷先を離れたら、散財する(そんなに豪遊なんかはしませんが)というイメージで、オンオフの切り替えを大胆にしています。

 

そんな感じで、日々過ごしていますが、気づけば、波乱万丈な2020年も残り半分になりました。

 

今年の夏は、今まで生きてきた人生の中で、一番静かな夏です。いわば「原点回避」の夏です。

 

どんちゃん騒ぎから一旦離れ、自然を五感で感じることで、今まで、自然と対峙せず、破壊し続けた人間が、対話する、貴重な夏だと思い、過ごしたいと思います。

 

 

 

 

波乱万丈な2020年前半を振り返る。

こんばんは、コミュニティサポーターであり、エッセンシャルワーカーでもある栗之助です。

 

まもなく、怒涛で波乱万丈な2020年の前半が終わろうとしていますが、2020年に新年を迎えた時、世の中の慣習を含め、全てが吹っ飛び、生活様式が劇的に一変するとは、誰もが思っていなかったと思います。

 

私も、住み慣れた場所に戻った新年に、一瞬見えた初日の出に手を合わせ、初詣にも伺い(住み慣れた場所に戻った時は、毎回、近所の神社に参拝し、報告しているので、特別感はないのですが)1年を祈願しましたが、まさか、こんなことになるとは思っていませんでした。

 

1月末から雲行きが怪しくなりましたが、住み慣れた場所には、4月まで月1回ペースで戻っていましたが、4月の時は本当に公共交通機関がガラガラ状態で、最低限の用事を済ませた以外は、引きこもっていました。

 

そして、左遷先に戻った時に、移動制限がかかり、GW中は左遷先から出ることが出来ず、寒い一人の部屋で、買い物以外は籠る生活になりました。

 

そして、皆さんも含め、私も生活様式が一変しました。

 

ネガティブな情報しか垂れ流さないマスゴミと決別し、テレビなしのラジオ中心の生活になりました。

 

SNSからも距離を取り、3月で、このブログ以外の発信を辞め、合わせて、自分の身の回りの整理をしました。

 

新型コロナウイルスの影響で辞めざるを得なかったコミュニティから離れ、自分を利用しようと企んでいたコミュニティと決別しました。

 

左遷先と住み慣れた場所にある、それぞれの部屋の整理もして、本当にミニマリストの様な生活になりました。

 

ステイホームによって、心身の調子が崩れそうになりましたが、食生活を中心に見直しをして、ファスティングと歩くことを意識しました。

 

情報も、自分に必要な情報を厳選し、週末は、長めの散歩と、ラジオをBGMに本を読む、シンプルな生活になり、体重と金銭管理を毎日することで、新たなルーティンを獲得することが出来ました。

 

それが功を奏したのか、6月に入り、好天に恵まれる機会はほとんどありませんでしたが、心身の不調が徐々にいい方向に改善して行き、薬の力を借りていますが、睡眠時間8時間以上をキープし、早寝早起きする様になりました。

 

エッセンシャルワーカーとしての仕事は、やはり気が重いですが、6月くらいから自分なりに見通しを立てることが出来る様になり、忙しくて気が滅入るときも多々ありますが、あっという間に休みになり、オンオフの切り替えが出来る様になりました。

 

この半年で、世の中が大きく変わりましたが、元々、人付き合いが好きではなく、実は苦手だった自分には、人とのソーシャルディスタンスを取ることや3密を防ぐことで、余計な付き合いがなくなったことは、とても良かったことと思っています。

 

元々、一匹狼の様に、ひとりで自由気ままに過ごす性分だったのが、いろいろな柵(しがらみ)で、余計な気を使いながら生活していたことや、馬鹿らしい慣例がなくなったことで、自分らしく過ごすことが出来る喜びを、ひそかに噛み締めています。

 

皆さんもご存じだと思いますが、藤原史織さん(元:ブルゾンちえみさん)が、今までの芸歴を一旦デリートし、本名で活動していらっしゃいます。

 

メディアの情報でしか分かりませんが、きっと、芸歴をデリートすることを大いに悩み迷われたかと思いますが、きっぱり、過去と決別を決めた時の、彼女のインタビュー記事での発言は、清々しさを感じ、素晴らしいなぁと感心しました。

 

そんな彼女の姿が、私を後押ししたのかは分かりませんが、過去(実は、それなりに輝かしい過去でしたね)と決別した経験のある私が、まさか、さらに決別を図るとは思いませんでした。

 

藤原さんには、本当に「自分らしく」人生を闊歩して欲しいと願っていますし、私も、そんな彼女の様に、この禍から得ることが出来た、過去やしがらみから解き放されたことで、手に入れることが出来た「自分らしさ」を大事にしていきたいと思います。

 

実は6月末に、移動制限が解かれたので、久しぶりに住み慣れた場所にとんぼ返りでしたが、戻りました。

 

あいにくの天気でしたが、良いリフレッシュが出来、7月からの後半戦に向け、英気を養うことが出来ました。

 

とんぼ返りということで、残念ながら、恩師らとの再会にはなりませんでしたが、ゆっくり戻ることが出来る時(おそらく秋ごろ)に、このステイホーム期間を含め、お互いに報告して、この禍の中で、生き延びることが出来たことを、互いに労うことが出来ればと思います。

 

とはいえ、まだまだ、新型コロナウイルスという見えない敵との戦いは、未だ終わってはいません。そして、新たな生活様式に、我々がシフトチェンジする必要があります。

 

残念ながら、シフトチェンジ出来ない老害や馬鹿者があちらこちらにいますが、こういう変わることが出来ない、ヒトの様な様相をしたイキモノは、やがて自ら滅亡の道を歩んで行くと思います。

 

withコロナという意識を常に持ち、パブリックでのマスク着用や、ソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)が通例になった世の中で、その新たなルールを守りながら、新たなコミュニケーションを模索していくことが、賢い人たちに必要なスキルだと思います。

 

集いがZoomというツールで容易に出来る様になり、リモートワークや在宅ワークという、新たな方法が確立され、ただでさえも、音速の様に激変する世の中が、さらに加速していく中で、直に人に会うことだけが、コミュニケーションではないことが分かった今、どうやって人とつながりますか?

 

今こそ、新型コロナウイルスへの対応と同じように、人とのつながり方について、英知を結集させる時が来たと、気持ちを引き締め、新たに自分に有益なつながりを再構築して行く好機だと捉えたいと思いますし、変わることが出来ないおバカちゃんに感情を使う余分で無駄な時間はないので、とにかく自分を守ることに徹します。

 

次回の更新は7月になり、いよいよ2020年の後半に入ります。この残り半年の過ごし方で、この見えない先での、生き延び方が決まると思います。

 

波乱万丈な2020年の年の瀬に「こんな大変な年はなかったね」と、前向きに振り返ることが出来ればと思います。

 

 

 

相手に逃げ道を残し、お互いを許すことが、結果、自分の風穴を開けることとなる。

こんばんは、コミュニティサポーターであり、エッセンシャルワーカーでもある栗之助です。1週間お疲れ様でした。

 

最近、エッセンシャルワーカーの作業や、他のエッセンシャルワーカー関係者との関わりで、自分に合わないことが多いなぁとモヤモヤした気持ちになることが続きました。

 

正直、しんどいなぁと思いましたが、その時、偶然、目にした言葉が、今日のタイトルにある「逃げ道を残し、許すこと」「自分の風穴を開けること」です。

 

私自身、コミュニティサポーターとして、医療、教育、福祉という、様々な領域で活動して来ました。その経験値は、おそらく、単に士(師)業を名乗ることで、評価を得る姑息な手段しか取ることが出来ないスケールの小さい奴とは、かなり大きな隔たりがあると思います。

 

経験値を上げるということで、様々な修羅場を潜って来ました。抗争に巻き込まれることも多々あれば、公開処刑されたことも何度もあります。濡れ衣を着せられ罠にはめられ、その結果、心身が殺られてしまい、活動休止に追い込まれたこともありました。

 

その度に、様々な経験から、自分に足りない知識や技術を得ることを自分なりにやって来ました。その結果の一部が、単に士(師)業資格だっただけであり、それだけで、十分に知識を得た、技術もあるとは全く思ってなく、今の自分は超未熟で、まだまだ進化し続けることが必要だと痛感する毎日です。

 

今は、コミュニティサポーターやエッセンシャルワーカーとして足りない知識やスキルを経験から学ぶ一方で、今のコロナ禍で結果を出している人たちから発信される、今の世の中を生きていくための術を学ぶことが、自分がコミュニティサポーターの様な、机上の空論じゃなく、ダイレクトに地域や社会に貢献できる人になるために必要な知見だと実感しながら、目から鱗が落ちるキラキラしたリアルタイムで新鮮な情報を毎日、頭の栄養として与えています。

 

このコロナ禍で、マスゴミから離れ、テレビを観ない生活に慣れたのか、今は、そういう結果を出している人の本や記事を見たり、気に入ったオンラインサロンに入ったり、自分で「これがいい」と思った情報を、収集して選択して、いらないものは捨て、必要なものだけを残す「心(人や物)の断捨離」をしていました。

 

しかし、最近、心の断捨離をする中で、どうしても躊躇して捨てられない人、捨てたい気持ちはあるが、捨てられない人が、立て続けに出てきました。

 

そんなモヤモヤした気持ちの中で、目に飛び込んで来た言葉が「逃げ道を残す」と「許す」という、2つの言葉でした。

 

 モヤモヤする背景にある思いは「何で、こんなこと、分かってくれないの?」という、自分からの一方的な価値観から起こった気持ちであり、それが反映されたものです。

 

価値観はどんなに近しい間であっても、異なるものです。これは身内とか仲間とかでも同じことです。家族間でも当然、価値観は異なります。

 

その価値観を相手と共有したいという、到底無理なことを期待しているから、モヤモヤしてしまうと思います。

 

そして、もうひとつモヤモヤさせることに「相手のことを考えて」という、これも自分の価値観に基づいたものなので、「相手のことを考えて」と言いながらも、実は、相手のことは考えていません。

 

よく「〇〇のために」という言葉を使うことが多いと思いますが、私が、まだ駆け出しの援助職だった時に、ケースレポートを出した時に、この「〇〇のために」という言葉が、レポートに多用していたことに、痛いコメントをもらったことがあります。

 

ところで、「〇〇のため」って、何度も書いてあるけど、本当に、その人のためになっているの?

 

その時に、自分が「〇〇のために」と言っていることが、本当にその人のためになっているのか?という視点に欠けていたことに気づきました。

 

それから、私は、「〇〇のために」とか「分かります」という言葉を、現場で使うことはしなくなりました。

 

逆に、その人のためにと考えるのであれば、その人に「逃げ道」と作ることが、よほど良いのかな?と、最近、思うようになりました。

 

相手に優位感を与えながらも、実は、それは逃げ道を作ってあげており、逆に、自分が関わり易くするように場を整え、実は、優位なのは自分の方にしています。

 

例えば、ある対応が気に入らないと文句を言われた時、自分の価値観をぶつけようとすると、その文句に乗っかり、事態が悪化するだけです。

 

なので、逆に、文句に対し「こういう考えの持ち主なんだ」と思い、相手の文句に対して、分かった様に謝るなどの対応をします。あるいは、そういう考えなんですね。と流して理解している素振りを見せることにしています。

 

あるいは、文句を言われたことが、自分の価値観を否定したり卑下したりされると怒りが沸き起こってきますが、これも「価値観が合わない人だな」と、いい意味で「許す」ことで、怒りのボルテージを下げることが出来ます。

 

相手に対し理論武装して、逃げ道を与えないことは、結果、自分の首を絞めることになりますし、理論武装する人は、大概、その理論に依存しているだけなので、その理論にボロが出ると、一気に弱体化します。

 

なので、理論武装するヒトは弱い奴だと思っているので、その話には一切乗らず、ただ、その罵詈雑言が収まるのを待ちます。

 

そうすることで、相手にボロが出た時に、コテンパンにやっつけていないので、逃げ道を作ることが出来ます。

 

そして、中には「言っても分からない奴」がいますが、こういうヒトには、用件だけを淡々と伝え、想いなどの感情は入れません。

 

理由は、そういうヒトに、何を言っても分からないのだから、自分の余計な力を使うことに、全く意味がないからです。

 

言って分かる人であれば、我々の様な、エッセンシャルワーカーが対応することはなく、ご自身で考えることが出来ると思います。

 

なので、一見すると、対応がクールに見え、冷たい印象を持たれますが、エッセンシャルワーカー自身が、仕事を続けていくためのは、良い意味での割り切りやクールさは大事だと思います。

 

” Cool head, warm heart ” という言葉がありますが、この言葉で仕事なり作業をしていると、間違いなく殺られると思い、私は " Cool head & heart " を意識し、仕事という言い方ではなく、作業という、より感情が入らない様に、意識することで、自分の心身を守っています。

 

こういう自己防衛や相手に逃げ道を与え、許すことで、結果、自分の風穴を開けることで、自分に降りかかる様々な攻撃によって、心身を守り、殺られた心身を上手く癒し、自分の進路を迷走せず、前に進んでいくことが出来ると思います。

 

風穴を開けることで、今まで「許せなかった」ことが「許す」ことが出来、単に、人を一気に断捨離するのではなく、人によっては、程良い距離間で、適度な関係性を保つことも大事だと、最近気づきました。

 

いよいよ、6月も中盤に来て、徐々に、人の行き来が始まっていますが、まだまだ、見えない敵との戦いは終わっていません。

 

しかし、この見えない敵との戦いの中で、「自分がどうありたいか」「自分がどう生きたいか(活きたいか)」が、ぼんやりと見えて来ました。

 

今、使っているコミュニティサポーターという言葉の違和感も日増しに強くなっているので、どこかのタイミングで、コミュニティサポーター栗之介から、名称を一新したいと思います(ちなみに栗之介は本名ではありません)。

 

今週末は、久しぶりにサ活をして、ととのいましたが、少し入りすぎたのか、少し疲れ気味です。

 

サウナも1室数名という限定があり、室内は私語厳禁になっていましたが、やっぱりサウナは良いなぁと思いました。

 

来週末は、緊急事態宣言も少し解除されたため、久しぶりに遠方に行くので、更新が数日遅くなるかもしれません。では、来週もお元気で!

二次的被害を引き起こしていないか自戒すること。

こんにちは。コミュニティサポーターであり、エッセンシャルワーカーでもある栗之助です。

 

最近は「休める時に休む」こと、「休日に1万歩以上歩く」ことを、ファスティングチャレンジ(やや停滞気味)に加えました。

 

日々、エッセンシャルワーカーなので、単調な作業+クレイジーな輩の対応で、本当に平日は、ひとり寂しいアパートの部屋に帰ると、一気に疲れが出て、毎日1回の食事(夕食)を食べると、もう、何も出来なくなります。

 

なので、休日は思いっ切って、別のことをやろうと思い、「1万歩チャレンジ」を始めました。

 

今は田舎の辺境の地に飛ばされたのですが、日常生活ではそれなりに品物が揃うので、大丈夫ですが、それ以外のものは全くないので、大きな街に行くとき(住み慣れた場所を含む)に一気に買いに行きますが、しばらくコロナの影響で行くことが出来ません。

 

おまけにファストフードも周辺にはないので、1万歩チャレンジの目標を「ファストフードで朝食を」として、朝早く、1時間くらいかけて、歩き始めました。

 

今日は、今まで行ったことのない道をひたすら歩き、森林浴をしながら、ゆっくり歩きましたが、マスクをしているので、いい運動になります。

 

ファストフードの朝食はいたってシンプルですが、本当にパンが美味しく、まったりした時間が流れます。

 

一気にアクティブになることで、コロナで沈み気味だった心が、少しづつ、ほぐれて来て、前向きになって来ました。

 

ステイホームすることで、ラジオを聴く機会が格段に増え、マスゴミとの接点もないので、不快にする情報もシャットアウト出来、必要最小限の情報と心地好い音楽とトークが、疲弊した心身を癒してくれます。

 

実は、私の夢のひとつに「ラジオDJ」というのがあります。年齢的に厳しいかもしれませんが、いつかは「心に寄り添うラジオ」をやってみたいと思っています。

 

さて、今日のタイトルは「二次的被害を引き起こしていないか、自戒すること。」ですが、先ほど、遠ざけた「マスゴミ」に関することです。

 

情報は必要なものを最小限にと思っていますが、やはり不快な情報を見聞きすることがどうしても生じてしまいます。

 

低俗なヒトが大好きな「他人の不貞話」が、マスゴミの煽りで炎上しまくっていますが、本当に、そんなに他人のどうでも良い話に興味あるの?と思います。

 

これについて、ある方は「誰もが正誤が分かるものはヒトが食いつきやすい」と離されていましたが、本当にそうだなと思います。

 

世の中の今を知るために観る専用のSNSで、あるタレントさんが、今回、炎上していることに対し、一般的な意見として、不貞をした双方に擁護することは全くないが、それによって、二次的被害を受ける人がいることを書かれていました。

 

私もこの意見には賛成で、不貞については、双方とも共犯者であり、擁護することではないですが、他人のことにいちいち正論をぶつけても、単なる時間潰しにしかなりませんし、そもそも、その問題は当事者間で結論を出すことであり、我々が口をはさむことではありません。

 

そして、二次的被害を受けている方が、謝罪するという、傷に塩を刷り込むような行為をさせてしまう「不寛容社会」は、本当に狂った「マッドシティ」だと思い、謝罪した方のお気持ちを察するだけでも、心が痛みます。

 

今は誰もがSNSを使い、意見や自己主張が出来る時代ですが、その意見や自己主張によって、誰かを傷つけていないか?ということを、自戒することが大事だと思います。

 

不貞行為については、擁護するしないかは、個人の価値観なので、どうでも良いことですが、それらを攻撃することで、他の誰かを傷つけていることに、いい加減にマスゴミは気づいて欲しいですが、マスゴミはいかに低俗なヒトに観てもらうかが商売なので、誰もがマスゴミを相手にしない限り、この行為は永遠に続くと思います。

 

そして、不貞や違法行為をした人の行為自体は擁護出来ないことですが、その行為とその方の才能や功績は、全く別物として、切り離して考えるべきだと思います。

 

世の中に「生まれてから1回も失敗や口外できない行為がない」と胸を張って言える人に出会ったことはありません。

 

私も、失敗や口外できない恥ずかしい行為は一杯ありますが、だからこそ、いろいろなことを学び、それなりに成長し、進化出来ると思います。

 

他人の失敗を嘲笑する時間があれば、もっと違う、生産性があることに時間を割いた方が、これからのウィズコロナで生活するために必要だと思います。

 

今回のコロナ禍で、情報を収捨選択することが出来る人と、情報を鵜呑みにして流されるヒトと、大きく2分化されました。

 

人はマスゴミの不安を煽る垂れ流された情報をシャットアウトし、有益な情報をSNSを通じて得る様になり、一気にメディア離れが加速しました。

 

メディアやマスゴミが相手にするのは、考えることを辞めた「ヒト」だけで、この比率は徐々に少なくなります。

 

少なくなれば、マスゴミの収入源のスポンサーは離れ(このコロナ禍で加速していますが)、低俗なマスゴミが淘汰されると思います。

 

情報は、ただ漫然と受け取るものから、自分で選び、キャッチアップする時代に、一気にシフトチェンジしました。

 

何故、コロナウイルスによって3密がダメになったのか?、その理由を考えるために、正しい情報を得て、正しく対処すれば良いだけです。

 

私の様な、エッセンシャルワーカーが、何故、リモートワークが出来ず、直接対応を余儀なくしているのか?

 

そして、エッセンシャルワーカーが真に必要にしていることや願っていることが、単なる励ましの言葉や差し入れではないことは、ちゃんと考えることが出来れば、容易に分かることです。

 

匿名性であっても、自分の言動に責任を持ち、その言動で誰かが傷ついていないのか?悲しい思いをしていないのか?人生に悲観的になっていないのか?ということを、常に心のブレーキを利かせる自戒することが求められていると思います。

 

エッセンシャルワーカーとして必須のマスクに加え、フェイスシールド(フェイスガード)と白手袋を、ようやくゲット出来たので、来週からの活動に使って行きます。

 

エッセンシャルワーカーからすると、テレワークは羨ましいと思うこともありますが、テレワークしている人も、今までの生活様式が変わり、それなりに苦労されていることを、間接的に観聞きして、単純作業と対応に苦慮しますが、今までと変わらない生活を送ることが出来ることは、それで良いことかな?と思い、休日にしっかりと休み(既に掃除と洗濯が終わったので、後は、休むのみ)、来週からの単純作業に挑みます。

本当の「専門家」とは?

こんばんは、コミュニティサポーターであり、エッセンシャルワーカーでもある栗之助です。いよいよ6月になりました。

 

自粛モードが解かれましたが、まだまだ見えない敵との戦いは続いています。この戦いは永遠になるかもしれませんし、どこかで決着がつくかもしれませんし、どこかで折り合いをつけることなるかもしれません。

 

私個人の考えでは、今後、見えない敵は方法を変えながら、我々を襲って来て、その度に、人間の英知が試されることが続いて行くと思います。

 

なので、どこかで、折り合いをつけていくことが、一番、懸命でかつ、賢い選択だと、個人的には思います。

 

もう、新型コロナウイルスが発生する前には戻ることが出来ないという中で、新たなコミュニティを形成し、ライフスタイルを変化させて行くことが必要だと思います。

 

この自粛生活の中で、人間は、いかに世の中に無駄なことが沢山あることを思い知らされました。

 

それを、自粛警察や他人への偏見や罵詈雑言で不安を解消しようとした人間の形をした物体としての「ヒト」と、この未曾有の事態を冷静に判断し、未来を再構築して、違う世界を描いた「人」では、アフターコロナでの生き方や活き方が全く変わって行くと思います。

 

私自身、自粛生活も、エッセンシャルワーカーとしての作業も、正直、しんどいですが、逆に、これらの経験から、自分の未来をどうやってクリエイトするか明確になりました。

 

今はそれに向けての準備をしながら、アフターコロナでステイホームになった時の過ごし方、ただ外出するのではなく、目的と目標を持って外出するという考え方に変化しました。

 

具体的には、外出する時には「マスク着用」が原則ですが、せっかくマスクを着用するのであれば、歩く距離と歩数を増やし、身体に負荷をかけることにしました。

 

歩数を1万歩以上に設定し、ヒトが集まる場所ではマスク着用をしますが、それ以外のただ歩く時もマスクをすることで、良い有酸素運動になります。

 

ということで、今日のタイトルになっている「本当の『専門家』とは?」という本題に入りたいと思います。

 

最近、士(師)業を名乗ってSNSで発信する輩がいますが、本当に低レベルなことに無駄な時間を割き、些細なことを大きく取り上げ、断罪するのが、真っ当な正義みたいなことをやり、不寛容社会に加担している様子を垣間見ますが、それを観るたびに、士(師)業というのが、ますます嫌になって来ました。

 

残念ながら士(師)業は、所定の受験資格を持ち、試験に受かり、登録すれば名乗ることが出来るもので、士(師)業有資格だから「専門家」というのは、間違いです。

 

真の専門家は、士(師)業が業務として名乗って出来る範囲を知り尽くし、それを生業として出来ることです。

 

なので、専門家は「〇〇」の分野は知っているが、他の分野は知らないから、それについては言及しません。

 

例えば、アフターコロナの対処で、士(師)業を名乗る連中が、いろいろな方法を提供していますが、残念ながら、「本当にその方法を分かって発言しているの?」と思い、怒りを超え、唖然とするのが、SNSに散見されます。

 

私はエッセンシャルワーカーとして、最前線で援助みたいなことをしていますが、私が出来ることと知っていることは提供しますが、知らないことは「分かりません」と返答し、その筋の専門家に相談するか、そっちに対応をお願いします。

 

私も、主流の分野があり、その分野については長けているので、それについては、その立場であれば動きますが、今は、全く畑違いのところにいるので、ほとんど主流の分野については使っていません。

 

逆に畑違いの場所にいると、分からないことばかりですが、エッセンシャルワーカーとしてやっている以上、最低限の知識と行動は、ようやく出来る様になりましたが、より掘り下げた内容になると、本当に分からないので、その筋の方に方法を訊くことが多々あります。

 

そして、情報量を知識として蓄え、必要な時に取り出して、使うようにしています。

 

なので、今、エッセンシャルワーカーとしてやっている分野については、専門家ではありませんし、士(師)業を名乗ることも必要ないので、一切、名乗らず、単に、エッセンシャルワーカーとして使っている業務上の名称を名乗っています。

 

ただ、普段は会社の職名で呼ばれているので、ほとんど、エッセンシャルワーカーとしての名称を名乗ることも、言われることもありません。

 

そして、困った士(師)業がSNS上をザワつかせているので、名乗る必要がないのは、士(師)業嫌いの私には、本当にありがたいことです。

 

本当の専門家は、経験値に基づき、専門性に磨きをかけ、知識を積み重ね、「後世に語り継ぐ」ための「教本」を作ることを、口外せず、地道にやっていく人のことだと、個人的には思います。

 

浅はかな薄っぺらい知識を、上から目線で、自己満足レベルで提供する士(師)業だけには成り下がりたくはないと、SNSの無責任発言と不寛容社会を増殖している、どうしようもない士(師)業を観ていて、さらに気持ちが強くなりました。

 

ちなみに、同じレベルの生物に「大学教員」というのがいますが、これらも、自分の知識が一番素晴らしいと自画自賛し、それが世の中に必要だと大きな勘違いをしている、現場経験知ゼロなので、そういう肩書だけで、言動を信用しない方が良いと、個人的には思います。

 

肩書ではなく、唯一無二のスタイルで、今も、これからも、エッセンシャルワーカーも経験した「コミュニティサポーター」として、地道に地味に淡々と活動出来ればと思っています。

 

そのためにも、今の経験も自分の「経験値」として、専門家になるための「糧」にして、必要な知見を得るための努力を惜しまずにやりたいと思います。

 

6月に入り、自粛生活で止まった時間が、少しずつ動き始めましたが、見えない敵をやつける方法が未だに見い出せない中、まだまだ、それぞれが防御する方法を模索していると思います。

 

自分自身や大切な人を守ることは大事ですが、人間としての大切なものだけは、無くしたくないと、思い、日々の生活を過ごして行きたいと思います。

 

改めて、外に出ることが、こんなにも素敵なことなのか!と感動しています。

 

今は「旅する」よりも「外に出る」ことに、フォーカスしたいと思います。

エッセンシャルワーカーに必要なことは、「感謝の言葉」を送られることなのか?

こんにちは、コミュニティサポーターでエッセンシャルワーカーの栗之助です。

 

今週から、徐々に世の中が通常に戻った様で、働き方がほとんど変わらないエッセンシャルワーカーである私には、ほとんど無縁の世界の出来事ですが、在宅勤務やテレワークを強いられていた皆さんが、通常勤務に戻られることで、エッセンシャルワーカーとしての作業にも、通常作業に戻りつつあります。

 

そういうこともあり、平日の作業も案外忙しくなり、このブログも、今までの週末更新に戻したいと思います。

 

今週の作業は、3日間が外回りでした。常時マスクを着用し、フィジカルディスタンスを意識した対応になり、外回り時間も長いので、毎日、ヘトヘトになって帰って来ました。

 

とは言え、今週から開始したファスティングは、順調で、平日は夕食のみなので、一気に体重が落ち始めました。

 

ただ、週末は、まだまだ、予断を許さない状況なので、不要不急の外出は避け、部屋にいることが多いので、気を付けないと、何かを食べてしまいそうです。

 

ただ、一日1食というのが、案外、苦にはならず、けっこう作業が忙しく、心身も殺られるので、作業中は食欲がわかず、水分(青汁か炭酸水)を取る程度なので、一気に落とすことが出来そうです。

 

ファスティングで体形が20代の頃に戻れば、今まで持っていたタンスやクローゼットの肥やしになっていた不要な衣類を、一気に処分することが出来ます。

 

装飾品に全く興味が湧かなくなった私は、基本着るものは、平日は作業着、休日はジャージ、たまに大きな町へ行く時におしゃれな恰好をする程度です。

 

持ち物も、最低限必要なカバンがあれば十分で、別に高級なものが欲しいわけでもなく、時計も長年使っている少し値が張ったものです(安い作業用時計はどこかに紛失してしまいました)。

 

財布は、少し値が張るものを使っていますが、大きな長財布とメインで使っている電子マネー専用の小銭入れと、本当の小銭だけの小銭入れを使い、他の大事なものを入れたカードケースと折り畳みのエコバックと一緒に、無印良品のショルダーバッグに入れています。

 

なので、暮らしが本当にシンプルになり、アパートにあるのは、必要最小限のものしかありませんし、住み慣れた場所にある荷物も、一気に断捨離をしたので、本当に荷物が減りました。

 

シンプルになったのは、モノだけではなく、ヒトと人を見極め、人の付き合いもシンプルになり、不必要なことを一気に排除することが出来ました。

 

この新型コロナウイルスにより、3密が悪の様に扱われることによって、ヒトとの付き合いで3密になる付き合いが一気になくなり、さらに不必要なものが進み、シンプルになると思います。

 

ソーシャルディスタンスにより、物理的なヒトとの距離が取れることで、心理的な人との関係を取れる様になると思います。

 

そこで、使われるのがSNSというツールですが、残念ながら、そのツールを凶器の様に使っているのが多くなった様に思えます。

 

ようやく、それが社会的に問題だと世間が気づいたのか分かりませんが、本来の正しいSNSの使い方や意義を再認識し、有効に使うことが大事だと思います。

 

前置きが長くなりましたが、今日のタイトルにある「エッセンシャルワーカーに必要なのは『感謝の言葉』を送られることなのか?」という話に入ります。

 

最近、SNSで「エッセンシャルワーカーに感謝」とかいう投稿が目立っていますが、実際にエッセンシャルワーカーとして作業に出向いている私からすると、そんな投稿があるたびに「自己満足レベルだよな」と不快になります。

 

言葉や物が送られるのは、嫌ではありませんが、本当に必要なのは「人手(マンパワー)」と「差別や偏見を受けない社会」です。

 

エッセンシャルワーカーをやっているだけで、差別を受け、言われもしない罵詈雑言を浴び、消毒スプレーをいきなりかけられる社会で、自らの仕事や作業を口外できないエッセンシャルワーカーや、その家族は多いと思います。

 

しかし、エッセンシャルワーカーは、新型コロナウイルスという見えない敵との戦いを強いられているので、完全な予防対策をしています。

 

手洗いやうがいはもちろん、検温して、体調が悪ければ、強制的に休まされます。そこまで徹底し、さらに、ソーシャルディスタンスを通常の何十倍も意識し、公私を問わずフィジカルディスタンスを意識しています。

 

そこまで徹底してやっている人であれば、相当大変なことだとお判りになると思いますが、上記の様な醜いことをやるヒトは、実際にそこまで徹底してやっているのか?と思います。

 

そして、自己満足レベルの陳腐な言葉は、残念ながら、最前線で切迫した中で働き続けるエッセンシャルワーカーには響きません。

 

物もありがたいですが、しょせん、消え物なので、それらが無くなれば、それでおしまいになります。

 

大事なことは、言葉や物ではなく、エッセンシャルワーカーへの感謝の念を表に出さなくても良いから、思っていれば、自然と偏見や差別につながる言動はなくなり、感謝の言葉が自然に出ると思います。

 

皆さんが想像する以上に、エッセンシャルワーカーの心身は疲弊し、正直、いつぶっ倒れてもおかしくありません。

 

どうか、エッセンシャルワーカーとしてかかわることが出来ない人もいて、何かしたいと思うかもしれませんが、心の中で「ありがとう」と思っていただければ、それだけで正直、嬉しいです。

 

差し入れについては、以前、「差し入れハラスメント(サシハラ)」というのが話題になりましたが、正直、エッセンシャルワーカーへの感謝の言葉や差し入れは、これになる様に思います。

 

差し入れも、人によって趣味嗜好が異なるので、正直、迷惑なこともあります。行為自体は、とてもうれしいのですが、どうか、我々、エッセンシャルワーカーが生きやすい社会に戻すことに、その思いや願いを使って欲しいと思います。

 

自己満足レベルの行動は、優秀なエッセンシャルワーカーたちには、直ぐに見分けられます。

 

逆に、自己満足レベルではなく、我々、エッセンシャルワーカーが公私を問わず、ギリギリのところで踏みとどまっていることを知った上で起こすアクションは、我々の心に深く染み入ります。

 

厳しい言葉にはなりますが、どうか、エッセンシャルワーカーでもある、コミュニティサポーターの私からお願いです。

 

我々が、差別や偏見を受けない様に、暖かいコミュニティを取り戻してください。

 

今の私たちには、そこまでする余力はありませんので、どうか、通常勤務に戻り、おそらく、生活様式は変わりますが、通常の生活に戻った時に、疲れ切った我々が癒される社会やコミュニティになる様に、力を注いでください。

 

今は、誰もが見えない敵との戦いで、見えない未来に不安になることから、お互いに傷つけ合う様な惨状も見受けられますが、そんな殺伐とした世の中に、未来永劫はありません。

 

不安な気持ちはみんな同じです。そして、その不安は怒りになり、不安の矛先がエッセンシャルワーカーにぶつけられ、傷つきます。

 

不安や愚痴をボヤいても、何も解決はしません。正直、誰かが何とかしてくれるという他者依存も、この世の中では通用しません。

 

大事なことは、この戦後最大のピンチを、自分だったらどうやって乗り切り、生き延びていくかを、考え、トライ&エラーを繰り返しながら、自分の方法を確立することだと思います。

 

それをサポートするのが、コミュニティサポーターの責務だと、私は思っています。

 

あっという間に5月が過ぎ、次回、更新するときは6月になります。

 

今年の夏は、いつもと違う「静かな夏」になると思いますが、この静かな夏に、他責する時間があれば、そのくだらない時間を自分と向き合い、自身の未来を描くために必要なことをする時間に充てる、貴重な夏になると思います。

 

多くの人が経験した、未曾有の体験を、いつか「こんなことがあったね」と言える時が来ることを願って、今年は自らを律する年だと割り切って、言動に責任を持ちたいと、私は思います。