「感謝」と「感動ポルノ」の違い。
こんばんは、コミュニティサポーターでエッセンシャルワーカーでもある栗之助です。
エッセンシャルワーカーをやっていて、よくSNSで「エッセンシャルワーカーに感謝!」という投稿を観るたび、「そんな陳腐な言葉なんかいらねーよ」とイラっとすることが多々あるのですが、その原因が、タイトルになる「感動と感動ポルノの違い」についての記事を読んで、胸のつっかえが取れました。
新R25「ありがとう、は安く不満を抑えようとする言葉かも」幡野広志に聞く”感謝と感動ポルノの違い”2020.7.1(このブログからリンクが張れないので、新R25や幡野広志で検索してください)。
「まず黙ろう、我々が。黙って、彼らが喋るのを待とう」
この記事の最後に書かれた言葉です。ありがとうと単に発信するのは自己満足であり、「相手のため」というのが「自分のため」になっていないか、自問自答するため、先ずは「黙る」ことは大事だと思います。
この記事の中で、幡野広志さんは「お互いにWIN-WINになることを考えれば」とも話しており、SNSでの陳腐な感謝の言葉が、WIN-LOSTだなぁと、個人的に思いました。
以前もブログに「〇〇のため」という言葉は、非常に使い勝手がいい言葉ではあるが、本当に〇〇のためになっているか、考えることが大事だと書きましたが、それにも通じる、素晴らしい記事でした。
エッセンシャルワーカーが置かれている環境は、皆さんがマスゴミが脚色する以上に、想像を絶するくらい悲惨な状況です。
ただでさえも、相手に「ありがとう」と言われることは稀で、大概は罵倒され、罵詈雑言を浴びせられ、優しい人が精神的に殺られる、異常な世界です。
そんな状況の端くれにいる自分ですが、正直、罵倒や罵詈雑言を浴びることは、日常茶飯事で、それにいちいち反応していたら、心身が参ってしまいます。
かつて、それなりの誇れることがあった過去と決別したのも、エッセンシャルワーカーとして、真摯に対応し続けた結果、心身が殺られ、メンタル疾患に陥り、長期休養を強いられたからです。
未だに薬が手放せない中で、自分の身を自分で守る方法を模索した結果、真摯に向き合うことを辞めました。
もちろん、エッセンシャルワーカーとして、最低限度やることはやりますが、それ以上のことはしないし、関与しないというスタイルを取っています。
感謝される気持ちもないので、単なる流れ作業としてやっているので、感謝の言葉を言われれても、「そうですか」という程度でしか感じません。
なので、陳腐な自己満足な感謝の言葉に怒りや苛立ちを感じるのだと思います。そんな言葉を投稿する暇があれば、こっちの仕事をやってみろや!と思います。
感情をフラットにして、一切加担もせず、感じた感情にも優劣をつけず、ただ流すことで、自己防衛していると思います。
なので、エッセンシャルワーカーの仕事とは考えず、常に作業と言語化しているのも、仕事となると、責任とか、使命感とか、余計なものを背負ってしまうので、仕事とは一切言いません。
そして、定時に上がり、定時に帰ることを原則にし、行き来を歩きにして、間にスーパーに寄るのも、作業で疲弊した心身を、部屋に持ち帰らないための手段です。
歩き、寄り道することで、時間がかかりますが、その時間が、自分の心身をクールダウンさせる重要な時間だと考えています。
職場での付き合いもクールで、それ以外の付き合いはほとんどありません。
恩師は、エッセンシャルワーカーの大先輩になりますが、会う時は、近況で仕事の話をするか、困った時に連絡して聞く程度で、後半は、くだらない雑談か、お互いに好きな歌を勝手に歌っています。
実は、恩師との付き合いは、そんなにベッタリしたものではなく、案外、ドライなものですが、常に、この人がサポーターだと、思っているので、別に、そういう付き合い方で良いかと思います。
他にも、困った時に頼れる上司や同僚はいますが、彼らとも、本当に仕事上の付き合い程度です。
元々、人付き合いが苦手で、なかなか過去の仲間を捨てる(電話番号やメアドの登録が消せない)ことが出来ず、意味のない付き合いに、時間を奪われ、人脈という理由で、自分を偽っていましたが、それを、メンタル疾患で長期休養になった時に、一気に断捨離しました。
そして、たまたま元知り合いが、同じ会社にいたので、連絡しましたが、偉くなっていて、名前も間違えられたことで、「もう過去に縛られるのは止めよう」と、それも断裁しました。
「必要な縁はつながる」と、過去に言われたことがありましたが、本当に、それは実感しています。
不思議と、この人とつながりたいという人には、つながりますし、逆に、つながった人と、すれ違いが生じることで、ここが縁の切れ目だなと、断つことが出来ました。
それと同時に、過去の自分の栄光やら資格やらそういうものへの呪縛から離れることが出来ました。
今、エッセンシャルワーカーとしての作業に、過去の自分はほとんど必要ありません。正直、誰でも出来るものだと思うので、容易に手放すことが出来たんだと思います。
過去の呪縛から解き放され、感情優位にならないことで、ようやくオンオフの取り方が上手になったと思います。
完全に、平日は作業、休日は非作業(作業に必要な資格の勉強は休止中)になり、週末は、部屋の掃除をしたり、長めに散歩したり、作業で心身を乱さないための自己啓発のために本を読んだり、オンラインサロンの記事を読んだりして過ごしています。
今日の様な「日曜日夜」は、相変わらず憂鬱になりますが、好きな作業ではないので、当たり前に起こる反応だと思い、さっさと夕飯を食べて、服薬して寝ちゃいます。
平日の作業では、常に、週末の楽しみを考え、「後何日」と数えています。
平日は単調な毎日ですが、単調だからこそ、平穏無事に1日を過ごせたと、自分を労って、それの繰り返しで、1カ月、半年、1年、が過ぎて行く、と考えています。
今までの週末は、あえて左遷先を離れることをしていましたが、ステイホームを経験して、離れなくても、自分で全く違うことが出来る(出来る限り、心身に良いことをする様に心掛ける)様になりました。
住み慣れた場所へも、最低、2カ月に1回は、定期薬の関係で戻らなければならない状況を作ることで、良い意味での息抜きになっています。
左遷先では、極力、節制し、左遷先を離れたら、散財する(そんなに豪遊なんかはしませんが)というイメージで、オンオフの切り替えを大胆にしています。
そんな感じで、日々過ごしていますが、気づけば、波乱万丈な2020年も残り半分になりました。
今年の夏は、今まで生きてきた人生の中で、一番静かな夏です。いわば「原点回避」の夏です。
どんちゃん騒ぎから一旦離れ、自然を五感で感じることで、今まで、自然と対峙せず、破壊し続けた人間が、対話する、貴重な夏だと思い、過ごしたいと思います。